2.島原鉄道への想い

鉄道博物館に展示されている1号機関車の公式側水槽に、当時のままの銘板が取り付けられている。
鉄道博物館に展示されている1号機関車の公式側水槽に、当時のままの銘板が取り付けられている。

島原鉄道について

 1908年(明治41年)5月5日島原鉄道株式会社が長崎県島原に発足、1911年(明治44年)4月1日、鉄道員から150形「1号機関車」を譲る受けたのを期に、6月20日、本諫早ー愛野間を開業、1913年(大正2年)南島原まで延伸。1935年(昭和10年)雲仙鉄道(1938年廃止)の経営委託を受けたのち、1943年(昭和18年)口之津鉄道を吸収合併して総延長78.5km(諫早ー加津佐間)となるも、利用者の減少により2008年(平成20年)4月1日、 島原外港 - 加津佐間を廃止、現在は諫早駅 - 島原外港駅 43.2km、24駅に縮小して営業を継続している。

 

 

 終点の島原外港駅から6つ手前にある大三東駅(おおみさきえき)は、ホームの基礎が防波堤を兼ねているため、駅が海の中にあるような感じがします。たいした手すりもついていないホームの中ほどに、潮風を防ぐ小さな待合駅舎が、海を背にしてぽつんと建っています。朝日が昇るころ、ここから眺める有明海は絶景で、最近では、多くの観光客を魅了しているとか。海辺を走る鉄道路線の多い日本にあって、島鉄はひときわ美しい風景に恵まれていると私は思います。島原外港から口之津までの沿岸路線(平成20年廃線)を、残念ながらいまでは見ることはできませんが、この廃線跡を歩くたびに、かつて1号機関車が走っていたときの、日本の原風景が眼に浮かびます。きっと、新橋や横浜の浜辺もこんな感じだったんだろうなと思いを馳せるとき、芭蕉の一句が目の前の風景と重なりました。

    むざんやな かぶとの下の きりぎりす(松尾芭蕉)

 場所は古戦場の跡。うっそうとはえている背丈ほどもある夏草のあしもとにころがる朽ち果てた兜の下で、一匹のキリギリスが、か細い声で鳴いている。

 

 島原鉄道と1号機関車、そしてキリギリス。

 大三東駅に繰り返し打ち寄せる波の音が、百年前と少しも変わることなく、悠久のときを刻んでいます。黒煙をなびかせて走る鉄路の音が失われて久しいいま、あのドラフトを有明の海に再び響かせてみたいと、普賢を仰ぎ見ながら、こころ静かにそうおもう私です。島原鉄道の復活と1号機関車の再現をめざして。

島原鉄道 大三東駅付近から見た朝焼け(西川完氏撮影)
島原鉄道 大三東駅付近から見た朝焼け(西川完氏撮影)

島原鉄道復活計画

 島原鉄道を復活させたいと思っているひとたちが、意外にも、長崎とは遠くかけはなれたところで地道な活動を続けています。そのようなすがたを目の当たりにして、こころ揺すぶられる私ですが、そういう私だって、なにをかくそう、東京生まれの東京育ち、生粋の江戸っ子なのであります。そんな私ごときが、島原鉄道の復活にどうして関与したいと思うようになったのか、そのいきさつは後述することに致しまして、まづは、島原鉄道の復活とはどういうことなのか、ここからお話したいと思います。

 

 島原鉄道(以下「島鉄」)の創始者である植木元太郎は、1908年(明治41年)に会社を創立、1911年(明治44年)英国から輸入した10台の機関車のうちの5台(1号機関車から5号機関車)を鉄道院から払い下げを受け、この年の6月から諫早ー愛野間で営業運転を開始しました。長崎県島原半島は陸の孤島とよばれるほどの広漠たる土地であり、どうしてこんな僻地に、由緒或る機関車を購入できる経済力があったのかと、不思議に思う節もありましたが、現地で2年間生活してみて納得できました。内陸の交通より、船舶を使った沿岸交通が古くから盛んだったということ。国内はもとより外国航路に出向いていく船員の家族が村落を形成し、安定した経済力を保持していたということ。半島の突端に或る口之津港では遊郭が栄え、たくさんの人々が集散した形跡が残されていることなど、今よりも当時のほうが活発な経済圏を形成していたようです。

 欧米で鉄道に乗ったことのある人も数多くいて、鉄道の敷設には積極的な土地柄だったのではないでしょうか。

 

 昭和の時代に入ると、初期に導入した小型タンク機関車は大型機関車に取って代わり、鉄道博物館に移された1号機関車だけが当時の勇姿を今に伝えています。1930年(昭和5年)の送別式で取り付けられた「惜別感無量」の銘板が示すとおり、この機関車は日本で最初に走った1号機関車というよりも、島鉄が残した日本最古の機関車であることを、植木翁が言い残したかったのではないのか、私にはそう思えてなりません。 

廃線前の風景 加津佐ー白浜海水浴場前 キハ20系 (伊佐嘉祐氏撮影) 
廃線前の風景 加津佐ー白浜海水浴場前 キハ20系 (伊佐嘉祐氏撮影) 
廃線前の風景 龍石海岸を行くキハ20系 (伊佐嘉祐氏撮影)
廃線前の風景 龍石海岸を行くキハ20系 (伊佐嘉祐氏撮影)

 栄華必衰のごとく、盛隆を極めた島鉄も時代とともに活力を失い、廃線を余儀なくされました。2008年(平成20年)4月1日 - 島原鉄道線 島原外港 - 加津佐間の廃止をもって現在の営業区間、諫早駅ー島原外港駅までの43kmに縮小、さらに2017年(平成29年)11月13日、経営再建を図るとして、長崎自動車の傘下に入ることになりました。

 会社の運営については、経営陣のご努力に期待するしかありませんが、島鉄を思う民間人のひとりとして、植木翁の言いたかったであろう思い、即ち、「島鉄が残した日本最古の機関車」をもう一度島鉄のもとに戻し、ここから再スタートを切ることが、島鉄再建にふさわしい門出になるのではないかと私は思うのであります。だからと言って、実機を持ってくるわけには行かないので、せめて原寸模型なら手元においておくことぐらいできるのではないか。できうるならば、当時と同じ仕様の機関車(場合によっては内燃機関による駆動装置を搭載)を新造することも視野に入れて、原寸模型の制作に取り掛かりたいと考えております。

 また、復活作戦にたくさんの方々の参画を促すために、島原外港駅から廃線跡に沿って「延伸工事」を島鉄ファンの皆さんと進めるプロジェクトを立案しました。まさか運営路線を延伸するというわけではありません。あくまで「自主運営鉄道」を廃線跡地に延伸していくプロジェクトです。その路線で、新造した1号機関車を走らせてみたいという願いを込めて、日本国中の島鉄ファン一人ひとりに呼びかけたいと思っております。そのためにも「1号機関車・原寸模型展」を全国に巡回して「島鉄復活」活動への参画を促したいと考えておりますので、皆様のご協力をお待ち申し上げております。

 

 こうした動きが、島鉄の経営改善に少しでもお役に立てるならば、更なる応援の輪を広げる復活プランを幾つか用意しております。時機を見てご覧いただこうかと存じますが、まずは、1号機関車の完成をお待ち願うことに致しましょう。