上の写真は、神戸工場で大改造を受けた後の機体を1900年ごろに撮影したものと推定されます。島鉄に譲渡する1911年(明治44年)までは、緩衝連結器が取り付いていました。品川から小倉工場に回送、このあと諫早駅に移送され、本諫早まで職員が綱で牽引したという記録が残されています。
下の図は、島鉄の「機関車組立図」台帳に残されている1号機関車のデータです。自動連結器に改造する前の全長が記載されています(24.8F、改造後では25.3F)。ボイラー上に設置された砂箱が描かれているので、連結器の改造より先に砂箱の移設がなされていたことが分かります。
上の写真は、島鉄時代の1号機関車。緩衝連結器から自動連結器に改造されています。当時の開放テコのかたちが新鮮に映ります。鉄道院時代、ランボードにあった砂箱がボイラー上に移設され、石炭庫には増炭板が、運転室屋根には天窓が、それぞれ取り付けられています。
下の図面は、改造後の「機関車組立図」です。シャロン式の自動連結器に改変されている記録が残されています。これから制作する島鉄時代の「1号機関車」は、上の写真が撮影された時期の機体を参考に、鉄道博物館の実機採寸データを基にして設計を行うことにしました。
鉄道博物館の実機と比べると、缶胴の中心位置が低く、直径も小さい、したがって水槽の設置位置が中心に寄るのでランボードをはみ出しすことはなく、(実機は、はみ出ている)また、ボイラーと水槽の高さもほぼ同じなので、横から見たとき、すっきりしたデザインになっています。比較数値は「採寸作業」を参照してください。
運転室は開放的ではありますが、構造的には脆弱で、早々に側面の補強を強いられた痕跡を実機に見ることができます。しかし、デザイン的には、「原型」のほうが良いように思います。
写真を見てもお分かりのように、輸入時、鉄道院時代、島鉄時代の外観は、運用されていた各時代を反映して、それぞれ特徴のある姿を残しています。
再現計画をスタートしたころは島鉄時代に照準を当てていましたが、採寸作業が進むにつれ、明治期の技術がどのように変転して今に至ったのか、その経緯を知りたいという思いが強くなり、輸入当時(導入期)と島鉄時代(終焉期)の二つの1号機関車を比較対照しながら制作すれば、改造による技術の変移がよく分かるのではないだろうかと考えるようになりました。検討の結果、同時進行で制作することに決めました。
鉄道院時代の形態は鉄道博物館で見ることができます。その前後の時代の原寸モデルを比較すれば、改造プロセスがはっきりとみえてくるはずです。形態の変遷を具体的に把握できるうえ、工学的のみならず、文化的・社会的な面からも1号機関の存在を再認識する契機となるのではないでしょうか。
「1号機関車の再現プロジェクト」は、明治開府150周年を迎える今年にふさわしい事業であると自負するものであります。
1号機関車の輸入当時の「原型」を制作することで思う、もうひとつの期待について
機関車の発展段階(1号機関車からC62形までの日本の蒸気機関車の変遷)において、はじめと終わりを繋いでいる「何か」を読み取ることも可能になってくるのではないかという、もうひとつの期待に応えることができるかもしれません。2017年秋、私はC62形の原寸模型を完成させましたが、1号機関車の採寸作業を通じて、機関車の構造が150年間まったく変化していないことに驚きました。150年前に導入した機関車は、機関車としての機構をすでに完成していたということに他ならないからです。つまり、1830年代に発明された機関車というシステムは、1号機関車の作られた1871年には完成形に達していたということです。たったの30年しか経っていません。この短い期間に基本的な技術を確立していた英国の科学・技術の高さを再認識したうえで、C62形に至るまでの日本の鉄道車両技術に与えた1号機関車の影響を再検討してみたいと思います。
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